親の先回りは犯罪5

今時風の言葉に「楽しいかった」というような「楽しい」があり、若い人がその言葉を口にするとどうも引っかかる。
というのは、「楽しい」を発するような記憶がないからだ。
「良かった」とか「嬉しい・充実した」はあるが、楽しいは無いのだ。

それは仕事を含めて、色々な状況で出て来る言葉だ。
もしかしたら「可愛い」と同じくらいの幅を持つのかもしれない。
ま、しかし、いくら突っ込んでいっても「楽しい」の実体が分からない。
もちろん、それは他人の事だから、私にとってはどうだって良いことだが。

しかし、私はその言葉を発する人のどこかに違和感を感じている。
だから、そこを解決したいと考え込むのだ。

神田道場に来ている、新しい人の一人に先日質問をした。
「武道は面白い?」と。すると、予期せぬ答えが返って来た。
「いや、これ程出来ないのは本当に面白いです」だった。
「あっそう!」
その人が、私にとっては普通の人だったので、驚いたのだ。

普通の人は、自分が出来ない事に出会ったら、「面白い!」となる筈なのだ。
つまり、幼児がどんどん挑戦していく姿が、そこに名残を留めているということだからだ。
幼児は、多分例外なく、恐れを知らずに挑戦する。
それを見ていて親はハラハラする。
しかし、その事が幼児を成長させるのだから、手を出して止める事をしない。
間違いなく、人はその延長線上に生きている「筈」だ。
だから、普通の人なのだ。

しかし、親が「危ない」からと先回りして、止めていた場合、この挑戦する、という本能は衰える、あるいは退化するのかもしれない。
そうすると「面白い」には育たないのだろう。

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