現代人にこそ
「触れる」は、「明鏡塾」でも「武道」でも共通する。
そしてそれは深い意味を持つものだから、ダンスや演劇などの「表現」とも共通させる事が出来るものだ。
そして「相手の流れに乗る」も、同じように、これら全てと共通する。
それは人の「関係」そのものの具体的な形だから、共通するのだ。
しかし、この「形」というのは、例えば手の形、身体の形の事ではない。
それこそ、拙著「こころの象(かたち)」のそのもの「こころのかたち」だ。
だから、現れとしての手の形や身体の形に意味は無い。
しかし、大方の人はそこだけに着目する。
そうすると、似て非なるものになるしかなく、列車の線路のように、平行線を辿るだけである。
「触れる」を敢えて説明すると「明鏡止水の如く」となる。
まるで湖面にその風景がそっくり映るように、自分のこころに相手が写り込む状態だ。
当然、考えて出来る事ではない。
ただ、ひたすら繰り返した先に、その状態が現れる、そんなものだ。
堪え性の無い現代人にこそ、必要な「行」とも言えるのだ。