そのレベルの人にだけ
電話が鳴ったので取ると、数年ぶりの人からだった。
近くに住む宮大工の奥さんからだ。
この宮大工とは20年来の付き合いになる。
私が熊野にいる頃は、半年に一度くらい、身体のメンテナンスに来てくれていた。
腕の良い大工がいないので、重宝がられ那智大社をはじめ、あちこちの神社仏閣を建てたり、修理にてんてこ舞いだ。
一匹狼の宮大工というのは珍しい。「
まだ熊野にいるので、何時でも来てください」と電話を切った。
1時間もしたら宮大工は顔を出して来れた。
しばらく会っていないので、その空白を埋める話が小一時間。
それからメンテナンス。
半年に一度というスパンは、大きな材木、重たい材料を運ぶから、半年以上は持たないからだ。
でも半年持つから、有り難がられての付き合いになる。
腕の良い大工はいないと、その宮大工は嘆く。
同時に、良い製材所も無くなっているという。
もちろん、仕事が少なくなっている事が原因だし、短期間で建つプレハブの様な家が主流になっていることも原因だ。
便利というのは、「何が?」と問い直す必要があるのだ。
目先の事が短期で処理できる、というところがミソだ。
実際問題として「目先の事」など無い。
時間という単位を持ってくるから目先になるだけだ。
今の十津川郷の仕事で、1m3百万円の材木を扱ったそうだ。
「やっぱり、それくらいの木は全然違う。そんな気に触れられる事自体が嬉しい」と、私には想像も出来ない話をしてくれた。
そのレベルの人にしか見えない世界、感じ取れない感性。
それこそが、その人が生きている証だ。