人との距離感
「それは違うで、『自分=私』は目だけ、顔だけじゃなくて、全身が自分やろ」先日の大阪明鏡塾での注意だ。
相手の言葉を「聴きに行く」という訓練、距離を詰める事で、どの距離が違和感を与えるか、あるいは、信頼感を与えるかの体感を得るという内容だ。
しかし、ここには条件がある。
お互いに、あるいは、「聴きに行く側」がきちんと相手に対して意思が向かっていることだ。
だから、普段の「そのまま」の状態でいくら距離を縮めようとしても、相手に取っては違和感でしかない。
普段の「そのまま」というのは、きちんと自分の話す相手を認識していない状態だ。
相手を改めて認識していなくても、日常はお互いの忖度で成立しているからだ。
真剣な場では、木偶の坊が突っ立っている、あるいは、何か気持ちの悪いオブジェがある、というようにしか感じ取れない状態だ。
私が注意をしたのはベテランの柔整師だ。
だからこそ、「あっ!ほんまですね」と即反応してくれた。
これが若い人なら「どうすれば良いでしょう?」になる。
「アホか、自分で考えや」と即答する。
もちろん、若い人とベテラン、という区分けでは無い。
若くても「そうか!」となる人もいる。
その違いは、「自分自身を問題視」しているのか、「知識を得たいだけなのか」の違いだ。
この違いは人生の違い、つまり、現象に囚われず充実した時間の中で生きて行くのか、現象だけしか追いかけられずに、つまり、現象に振り回されて生きるのかの違いだ。
今でいう「コロナ脳」の人達が振り回されている人達だ。