雑音と声は違う
声が確かに相手に向かっている時、相手を確かに聴きに行っている時、声の質が変わる。
別の言い方をすれば、音ではなく声になっている。
これは客観的に検証出来る。
周りに人がいても、声になれば周りの人が「何か起こったのか?」と、その声がする方向を見る。
しかし、声が相手に向かっていない時、独り言や思い込みで出している時、それは音でしかないから、周りの人には雑音だから見向きもしない。
聴くというのも同じだ。
確かに聴きに行っている場合は、周りの人がその方向を見てしまうのだ。
こんなところから、人は本能的に感じ取っている何かがある、としか言えない。
そして、その事が「関係」という現象の最たるものだ。
その伝える聴くが、相互に行われた時、その二人の周りの空気が変わり、周囲の人も巻き込まれてしまうのだ。
動物の感覚のレベルになり、余計な判断が入る余地が無くなる。
その心地良さは、大自然の中にいるのと同じ感じになっている。
私は、そのことだけを関係であり、会話とよんでいる。
もちろん、「明鏡塾」であれ、武道であれ必須の能力だ。
「武禅」では2泊3日かけて、この稽古をする。
そうすると、道場がまさしく道場の空気に満たされ、その場に影響され何かが変化するのだ。
だが、事判断する頭は変わらない。
この頭を、その場に影響された状態に調節する事が、稽古後の修行だ。