気??

海外でも質問されるのが「気」だ。
私が行っているのを気だという。
私は違うという。

どうして違うのかというと、私は気を知らないからだ。
概念的には分かるが、実際として知らないし分からないからだ。
知らない、分からないものを「そうだ」という気はサラサラ無い。
だから、質問として「気とは何ですか」に答える事は出来ないし、興味もない。

この「気」に関して考え出したのは、44.5年前辺りからだ。
それ関連の多くの人に出会い、色々な事象を知った。
しかし、それが「気」という言葉に置き換えられるのかというとそうではなかった。

それは、大方の事は「意識の働き」という視点で解決・処理できたからだ。
私は基本的に理解できない言葉を使いたくないし、自分に対して物知り顔をしたくはない。
私は「実現」出来たら良いだけだ。
言葉や分析は、そこからが始まりだ。

もちろん「意識とは何か」を解説することは出来ない。
まだまだ霧に覆われているからだ。

ただ言えることは、私の行っていることは、意識の側面ではある、という確信がある。
その確信は、現代において使い古されている言葉で説明がつく、つまり、人間の営みの一部だと言えるからだ。

気という言葉が歴史上何時現れたのかは知らないが、相当古いだろうと思う。
その歴史という時間の中で、科学も哲学も誕生し言葉も深化している。
古い言葉が必ずしも正解だとは言えないし、新しく現れる言葉も正しいとは言えない。

要はその事象を解き明かす上で適切かどうかだ。
そして、誰でも取り組めるかどうかだ。

何よりも、曖昧が嫌いだという性分がそうさせているのだ。
しかし、曖昧な事が山ほどあり、また、曖昧が大事だとつくづく思う。
だからこそ、つまらない事での曖昧は嫌いだ。
曖昧を排除した先に曖昧があり、その曖昧こそが本質だからだ。

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