削いでいく
削いでいく、多分日本の芸事や芸術の十八番だと思っている。
それは禅の影響かもしれないが、何とはなしに日本人に合っているのではないかとも思う。
狭い島国という環境を身体で感じ、それに見合って生きて来たからだ。
大陸のように、住処を彼方此方へ簡単に移れない。
そして、天災が多い。
しかし、四季があり、その四季の移り変わりの美しさがこころのよりどころだったのだろう。
その環境が十八番にしたのではないか、と思う。
その意味で、そこで生まれた武道の境地も共通すると私は考える。
だから、形も削がれたものでなければいけない。
私は、地唄舞の武原はんさんの舞姿に型を見る。
削がれたものと単純は違う。
削ぐ、というのは、より本質的に、ということだ。
そして、まずは一つの形を作り、そこから考え抜いていく作業を経過する。
そんな事を始終考えている。
では、ダンスでは、演劇では、、等々だ。
もちろん、動くからダンスだと分かる。
セリフや役が見えるから芝居だと分かる。
しかし、その当人の中にダンスがあったり、芝居があるのか、と問う時、この削ぎ落すという作業が必要になる。
役はあるがセリフはない。
動きがないダンス。
そんな事を考える。
数年前、フィンランドの役者や演出家の為にワークショップを開いた。
そこで「役柄が見えてくる」というワークをした。
もちろん、全員が「それって何?」だった。
見えてこなければ役者ではない。
見えてこなければダンサーではない。
そんな事の追求だった。
あかん、なんかまとまらない。
ま、ええか。