出来ないと失敗の違い
昨日の月曜日、なんだか知らないが風呂上がりのさっぱり感を感じた。
それは何か分からないが、とにかく「終わった」と感じホッとしたのだ。
もうどうでもよい。
「全ては失敗の科学である」ふと思い出した。誰の言葉かは知らないが、とにかく「そりゃそうだ」とその言葉を記憶している。
人が何かを獲得したり、新たな何かを生み出したり、という事には、この言葉が基本にある。
しかし、「出来ない」とは思っても「失敗した」とは思っていないのかもしれない。
もちろん、どちらも似たようなものだ。
「出来ない」の次に来るのは「どうすれば」だし、「失敗した」の次に来るのは「であれば」と、これも似たようなものだ。
しかし、決定的に違うのは、「失敗」の前には「こうすれば」が仮説としてある。
その仮説が違った、という意味で「失敗」になる。
そうすると、新たな仮説を考えればよい。
つまり、「出来ない」には意識的な行為が無く、「失敗」は頭も同時に使った行為だ。
で、道場やワークショップ「じゃ、これをやって下さい」と指示したものは、私自身の仮説に基づいたものだ。
だから、それに取り組む人たちを見ていて、それぞれの「個人」に適応するように変化させていくことが出来るのだ。
逆の言い方をすると、完全に失敗することを指示しているとも言えるのだ。
失敗の体験の重要性を、体験して欲しいからだ。
そしてそこから、2.3回失敗すると、完成を掴めるかもしれないのだ。