やれば良い、でも、、、

稽古の仕方、と口に出すが、画一的な何かがあるのか?と考えてしまう。

つまり、それぞれの人の持つ背景が全て違うのだから、○○とは言えない。
当たり前のことだ。

例えば、武道を始めてするのですが、と問われる。
じゃあ、これからしましょう、とはならない。
まずは、どの程度武道に興味があるのか?だ。

運動不足の解消なのか、何か知らないけど楽しそうだから、刀を操ってみたいのか、力が弱いのを克服したいのか、スポーツをやっていて、もう少し身体を操るということを知りたいのか、武道とはどんなものかを知りたいのか、とにかく、人は多種多様にそれぞれの思いや希望を持っている。
そんなことを考えると、稽古の仕方??となる。

逆に、一つの形に挑戦していく、とすると、稽古法は見える。
それは、その一つの形の構造を分解し、分解されたもの一つ一つに取り組めば良い、ということだ。
私の道場では、大きく言えば、「武道=関係」という捉え方をしている。
だから、色々な形があっても基本的なものは皆同じだ。

一番分かりやすい稽古は、「押す・押される」という関係だ。
それだけで、相手の押す力の度合いや方向や、押されてひっくり返る、あるいははじかれるという自分の身体の反応を知る事が出来る。
これは、その都度行っている。

しかし、稽古をする人を見ていてどうもしっくり来ない。
それは、人を意図的に押す、ということをやったことが無い人がいるからだ。
そうなると、こちらは手も足も出ない。
つまり、教えようが無いのだ。

その場合、やったことがなければ「やれば良いだけ」だからだ。
しかし、ここでまた一つ問題が生まれる。
「やりました」となるのだ。
そうなるのは、「言われた→やった」と、自分にとっての根本的な問題「やったことがない」が抜け落ちている、または、忘れてしまっているからだ。
だから、その答えに???となる。

そして「やってどうする?」と、またこちらは答える。
つまり、「やりました」ではなく、人を押すという感覚、押したいという気持ち、そんなことが自分の中で沸き上がったかどうかが答えだからだ。
動作としての人を押すが出来ても全く意味がない。
動作は気持ちの現れだからだ。

そこを「やったことが無い→やってみる」という逆説的な方法で、気持ちが沸き上がる、あるいは気持ちが動くという自分自身を作っていく、そこが目的になるのだ。

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