自分のモノは、お金を出して買ったモノだけ?
道場での稽古で、単純動作を繰り返すことがある。
もちろん、その単純動作の繰り返しには基本的な意味がある。
一つは大きく身体の働きとして、そして一つは武道として、という具合だ。
しかしその意味は、その単純動作を身体が難なく出来、そして武道に端を発し身体の働きというところまで考えが及んだ時に、自分にとっての意味になるものだ。
自分のものだから、その意味や価値を簡単に捨てることが出来るのだ。
しかし、その道を通らない時、その単純動作は永久に「単純動作」だ。
道を通らないというのは、単純動作の繰り返しをしない場合だ。
単純動作だから、その場の工夫で「出来た」風にはなる。
しかし、あくまでも出来た風だ。
その場だけの「出来た」だからだ。
だから、武道での組み稽古や型の中に、その単純動作の成果は出ないし、やっている事全てが振り付けのレベルに終わる。
単純動作の繰り返しは「出来る」を目指していることに間違いはないが、身体を作ったり、その機能を身に付けることでもある。
そして、その稽古の意味を身体で気づいていく為のものだ。
永久に単純動作を繰り返している時、ふと「一体これにどんな意味があるのだろう?」と疑問が沸けばしめたものだ。
そこが入り口になるからだ。
しかし、そんな疑問が湧く程繰り返しはしない人が殆どだ。
それは、その前に意味を知るからだ。
現代は、それをしなければ、つまり、先に意味を知っていなければ行動をしないという癖が染み付いているからでもある。
だから「自分のもの」にはならないのだ。
であれば、自分の人生で「自分のもの」とは、お金で買ったものだけ、人の話や情報を知っているだけ、という寂しいものになるとは思わないのだろうか。
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