チグハグな意見
昨日は神田道場の稽古納めだった。
最近道場に来てくれている女性の稽古を見ていて「あれと、これを比べて何が違うように見えている?」と質問した。
答えは間違ってはいなかった。
でも、自分自身がしている稽古、という立場の答えではない。
人は、こういうところでズレて行くのだ。
こういったチグハグな状態は、ずっと見ている。
というよりも、「人に教える」ということに集中しだした頃からずっと見ている。
イチロー選手の言葉ではないが、「自分に厳しくしよう」とするならば、ここがフラットでなければ厳しくも甘くも夢物語だ。
「いやいや、もっと入口の姿勢や動きはどう見えているの?」と質問してから、一挙に稽古がマシになった。
そう、出来ないのではなく、「どこから」やらなければいけないのかを知らなかっただけなのだ。
手本を見せる。
初めは、その真似事で良いのだ。
とはいうけれど、その真似事が難しい。
真似事が出来るというのは、「自分がどうしているのかを知っている」という前提が必要なのだ。
自分がどうしているのか、何をしているのかを知らない場合、ここから始めなければいけない。
しかし、人は日常ではあらゆる動作や所作をしている。
だから、どんな動作も知っていると思い込んでいるのだ。
それはそれで良しとした時、一体自分は何を根拠に、自分の動作を知っていると思っているのだろう?と、自分自身に質問を投げかける必要がある。
自問自答こそが、自分を確かめて行く唯一の作業なのだ。
大方の人はここをしない。
だから、会話の中で違和感を覚える言葉を平気で並べているのだ。
それは「その言葉を知っている」からだ。
しかし、その言葉を質問すると、答えられない。「それってどういうこと?」「、、、、」「いや、お前が話して、俺には理解できないから質問しているんや」
こんな言葉を何万回繰り返していることか。
そんな人が、どうして自分を進化させたり、成長させたり出来るというのだろう。
どうして、自分が発する言葉を、「これって、自分が獲得した言葉なのか?」と疑おうとしないのか?
そこが一番不思議なところだ。
自分が使っている言葉なのだから、それくらいは責任を持て、ということだ。
でないと、自分を迷子にさせるだけだからだ。
武道の稽古も同じだ。
同じような現象が出来ても、根本的には違う。
当初はそれで良いが、年月と共に根本的な違いは浮き彫りになってくる。
そうすると、残念ながら追い付かないということになる。
それは私たちは時間制の人生を歩んでいるからだ。
つまり、「死」という制限があるということだ。
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岡山1月11,12,13日
岡山・沖縄