結局、何でもええんや

道場修理は一寸中止で、大掃除というかいらない大物を産廃処分所に持ち込んでいる。
軽トラなので一車の値段だから安い。

私が生まれた時からあったタンスや、何だかんだと増えて来た荷物の処分だ。
大方は燃えるゴミだ。
処分所では、数人が手伝って降ろしてくれる。

思わず笑った瞬間がある。
大事に使っていて、しかも道場から外に出す時も注意しながら車に乗せたタンスを、荷台から落とし完全に壊れてしまった時だ。

「そりゃそうだ」ここは処分所だ。
どんな思いでがあろうと、大事に使っていようと、ここに持ち込まれた瞬間に粗大ゴミでしかない。
笑いが止まらなかった。

それは、自分が勝手に持つ「思い」やそれらが集積された「記憶」の阿保らしさにである。
これは人生と完全にリンクする。
焼き場で燃やされたら「灰」だ。
そこまで、思い切り無意味な思いを持ち、思い切り無意味な価値を持ち続ける。
それで潔く、いや、自動的に潔く死んでいく。
そこに腹を括っておかなければ、人生を楽しめること等一つもない。

大方が、巷に振り回された人生になってしまう。
もちろん、それもまた良しだ。
結局、何でもええ、ということだ。

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