ボケてた

電気がつけっぱなしだった。
夜道場に着くと、台所は煌々と明かりが点いていた。
留守の間ずっと点いていたのだ。

「電気点いてるやん」と妻。
「ほんまや」と私。
続いて「何でやろなぁ」「確認を怠っただけや」「何でやろなぁ」認知症だと笑う。

ヨーロッパでのワークショップでも、話していながら「今、何を話していた?もう認知症やから」と笑いをもらう。

昔はボケといった。
「何、ボケとんねん」「ボケか!お前は」「アホ、ボケ、カス」こんな具合に使う。
ボケで良い、少なくとも私は認知症と呼ばれるよりもボケが良い。
どうして「認知症」という改まった名称を使うのか。

そう使う事で、その症状が何とかなるのか?
祖々母も当たり前だがボケていた。
叔母もベッドでボケていた。

当時、病院へ行くと「あんた誰や?」「俺やんけ」「誰や?」「よう見いや」「あっ、あんたはんかいな」「分かってるんか?」日常での会話だ。
叔母は認知症ではなく、今の私のようにボケて来ただけだ。
私は不思議と普段通りにしか相手は出来ない。
だから、叔母は気楽に思い出したり、思い出さなかったりする。
決して認知症という特別な症状を持つ人ではない。

人は物忘れがひどくなるものだ。
それが悪いのか?それが間違いなのか?
施設ではどうして子供に話しかけるように話すのか、それだけでも、認知症という腫れものの触っているようだし、馬鹿にしているようでもある。
もう一つ突っ込めば、「私があなたの介護をして上げているの、一人じゃなにも出来ないでしょうから」といニュアンスを持つ人もいる。

物忘れを特別視するな。
それが普通だ。
忘れたっていいじゃないか。
それが普通、いや、それを普通だと思えばよいのだ。
ただ、周りの人が振り回されるだけだ。
どうして、それを寛容の気持ちで支えられないのか。

■ワークショップのお知らせ
 岡山
1月11,12,13日
 岡山・沖縄

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