見る目は10年経っても

「見る目」とは何か?と何時も思う。
稽古をする時、受講している人は、私を見る。
しかし、受講している人が私の「何を」見ているのかは、私には分からない。

Youtubeなど動画で、私の動きと似た動きはいくらでもある。
しかし、どちらが良いか悪いかではなく、似たような動き全部が「やっていることが違う」のだ。
当たり前だ、人が違うから全て違って当然だ。
そして、それぞれの人の目指すことに比例した「もの」が、身体の動きとして現れているからだ。

そこで、あまり身体操作を知らない人は、「これは日野とやっていることは同じだ」とすることもある。
もちろん、「それは違う」と注意をする必要もないししない。
否定も肯定もしないのだ。
それが「同じだ」とした人の眼力だからだ。

しかし、10年以上私から習っていて、「レベルが違う」ということを見抜けないということを知ると愕然とする。
もちろん、私自身を素晴らしいと言っているのではない。
身体操作の要素が違うということだ。
同時に、「見る目」という能力を形成する難しさを痛感する。
「見る目」を養うことで、鋭い違和感という感覚を練磨出来るという考え方は間違っているのかな?とも思ってしまう。

絵に興味のない人が、北斎やシャガールを見ても、猫に小判だ。
刀剣に興味のない人が、村正や孫六を見ても良さが分からない。
結局は、どれだけの逸品が目の前にあっても、その人自身が目指している方向やレベルでしか、見えない分からないものなのだ。

だから常にいうのは、そこに「それがあるのではない」、自分がそれを見つけ出せるレベルにならない限り「逸品は無い」のだと。

次は夏ギラギラの沖縄ワークショップ
沖縄ワークショップ8月10.11.12日

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