自分が決める覚悟
7月1日は亡き母の誕生日だった。
不思議に母の命日は覚えていない。
どうしてだろうか?
小学校の修学旅行で伊勢神宮へ行った。
その時、お土産定番のこけしを母の土産に買った。
多分、それが私の「誰か」へのお土産初めだったと思う。
その時期、私を育ててくれていた、曾々祖母や叔母へのお土産を買ったかどうかは、忘れてしまっているが。
しかし、母の死は強烈に覚えているし、その事が現在の私を作っているとも言える。
また、それが武道に現実感をもたせ、実際に昇華させてくれている一因でもある。
現実感というのは、道場やお稽古ごとではなく、具体的に自分自身を練磨させ、日常を人生を歩く糧ということだ。
人の生死というのは、「生死」という棚の上に置くものではなく、自分自身と被せていかなければいけないものだ。
つまり、自分の事として捉えなければいけないのだ。
結局は、人類は例外なく、誕生→死であり、その→の期間だけを人生と呼ぶものだからだ。
つまり、終点がある、それは何時来るのか分からない、という期間が人生なのだ。
誰でも亡くなれば命日がある。
母も曾々祖母や叔母にも命日がある。
しかし、日付を覚えていない。
きっとそれは、「私は生きている」ということで「私が」繋げているからだ。
「オカンの分まで生きてやる」という覚悟をしたからだ。
そうなると当然のことだが「生きる力」は強くて当たり前だ。
何人分もの生命を受け継いでいるのだから。
次は夏ギラギラの沖縄ワークショップ
沖縄ワークショップ8月10.11.12日