硬いということ

大阪から師範代が稽古に来ていた。
「硬い」
この硬いは、単純に身体の柔軟性ということではない。

身体がいくら柔軟でも硬い人は山程いる。
どう作用して「硬い」という印象になるのか。
詳しくは分からない。
それは、科学や医学がそこに分け入らないからだ。

印象ということになると、数値化出来ないからだ。
問題はここだ。
数値化出来るから「正確なのか」という問題だ。
数値化されただけで、「だから何?」なのだが、科学信仰の人達は、この「だから何?」という根本的疑問を持たない。
宗教だからだ。
その意味では迷信がまかり通っている。
自分の人生で、自分の限り有る生命の中でしか現実を享受出来ないのに。

「硬い」は、思考の幅と関わる。
もう少し根本的に言えば、先程の生命ある限りが自分の人生だということを、自分自身の人生の基盤においていないからだ。
つまり、目先の生活や、その周辺にしか目が向いていないということだ。

簡単に言えば、自分にとって何が一番大事なのかを、真剣に考えていないということだ。

今から、息子と61日に向けてのリハーサルだ。
何をどうするのかをリハーサルするのではない。
音を出してみる。
そこからの閃きを待つ。
その作業だ。

日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ

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