誉めるの裏側

「誉める」には、もう一つ理由がある。
それは、「私も共感したよ」と思われたいからだ。
つまり、仲間外れになりたくないからだ。

大事なことは、否定する場合は相手と対峙する場面が現れる。
対峙したくない場合は、相手を肯定するし誉める。
という事もある。

もちろん、私はそうはしないが、大方の人のやりとりを見ていて、吐き気と虫酸が走るのは、これらのことが見えてしまうからだ。

本当は、どちらにも対峙ということはあるのだが、褒めた場合はうやむやになる。
つまり、褒めた場合は、相手と対峙している必要が起こらないのだ。
しかし、否定するとなると、相手と対峙しなければならない。
それが出来ないから当然否定などしない。

多分、その意味では、他人を否定せずに生きて来ている人は沢山いるのだろうと思う。
もちろん、否定しなければならないのではない。
そんな場面に、あるいは状況に出くわさなかっただけだ。
あるいは、回避していたか、逃げたかだ。

この誉めるや否定のどちらにも感情が湧く。
その感情が、相手に伝わり「共感されている」と認識するのだが、その感情が希薄な、あるいは、皆目ない言葉、つまり、AIが発する記号のような言葉では、誰にも伝わってはいない。
しかし、大方の人は伝わっていると思い込んでいる。
それは生身の人間の世界ではなく、完全にバーチャルな世界だ。

ここは、感情を育てなければどうにもならないのだ。


次回は6月1日、そして沖縄へ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ

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