自分自身の奴隷

何時もながら、人が稽古をしているのを見るのは面白い。

例えば、課題が出来ないとする。
組んだ相手が色々とアドバイスをする。
そうすると、「出来た」という結果が現れる時もある。
それを数回続けて行くと、また元の木阿弥に戻る。
「何故だ?」

ここには2つ原因を考える事が出来る。
1つは、意識しすぎて出来ない。
これは大方の場合であり、そのことに気付くものも多い。
但し、気付くだけで、「では、どうするのか?」には進まない。
だから、延々とこれを繰り返す。

1つは、「出来たという現象を分かっていない」ことだ。
これは、自分で拘っているところがあるから、出来た現象に全く気付いていないのだ。
組んだ相手が、「今ので、出来ているよ」と言葉に出しても実は聞いていなかったということなのだ。

大人は、こういった傾向の停滞が多い。
子供のように、どうして素直に出来ないのだろうか。
なまじっか「考える」という事が備わったばかりに、それに囚われてしまっているのだ。
それが自分自身の「奴隷」ということだ。

音楽もそういうことは多い。
形式というのもそれだ。
それらを取っ払って「自由に」を標ぼうした時期は、クラシック音楽にもジャズにもあった。
しかし、形式と言うのは、自分自身を守ってくれるから居心地が良いのだ。

私は、ジャズ時代、徹底的にそこに向かった。
おかげで色々な発見ができた。
「自由に」というのも拘りであって、決して自由ではない、ということにも気づいた。

今回のコンサートは、そういった意味でも、私にとって意味があるのだ。
つまり、私のそういった気付きは、実際の演奏に本当に反映されているのか、ということだ。
大方の人が聴いたことのない音、音楽。
一度は味わって欲しいと思う。
感覚に直接響いてくる音を。

日野晃’古希’ドラムソロコンサート
4月12日 大阪大丸心斎橋劇場
6月1日 新宿ルミネゼロ

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