身体に響かせる
人は耳から聞くのか、あるいは、身体そのもので聴くのか。
もちろん、通常は多分、耳から様々な音が入ってきて、それを自動的に選り分けているのだろう。
というより、「耳から入ってくる」という先入観が刷り込まれているので、「耳から」を自動的に選び、「身体全体で」はカットしているのだ。
昨今の科学というか医学というか、そちら側の発見から言えば「身体で聞いている」がある。
私は、数10年前から「身体で」というのが本当だろうと感じていた。
だから、そこの言葉として「目で聴け」と指示を出している。
それを無条件に実行する人と、「どうして目なのか」という人とでは、その受信能力と響き方は変わる。
「響く」という言葉は、日常的に使われている。
しかし、本当に「響く」という事を体感している人は稀だろう。
多分、そういう想像の域を出ていない筈だ。
「耳から」を自動的に選んでいる事を止めていないから、響く筈もないのだ。
もちろん、ここで言う「響く」は、何でもということではない。
響く人や響く音は「響く」という事であり、そこで選り分けが効くという事だ。
いわば身体のセンサーだ。
判断のセンサーではなく、生命体の持つセンサーだ。
今回の「古希」コンサートは、そこへ届かせる、響かせるのも目的の一つだ。
それが「関係」だからだ。
音を聞くのではなく、私や息子が響いてくる。
それが目的だ。
もちろん、そこに私と息子の響き合いも入るから、三つ巴の「関係」だ。
これは、別段珍しいことでもない。
丁度文楽などこの典型だ。
しかし、文楽は全てそうなっているのではない。
以前、お亡くなりになった人間国宝の方達が揃った出し物を観た。
その時に、その状態を体験した。
人形、義太夫、三味線、が相互に有機的な関係を持ち、演目を創り上げていく。
その姿こそ、日本独自のものだろうとその時に感じたのだ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
4月12日 大阪大丸心斎橋劇場
6月1日 新宿ルミネゼロ