頑張っている私を好き

「頑張っている私の姿が好き」が見える人がいる。
これほど滑稽なことはない。
しかし、それを見抜けない、あるいは、見えない人にとっては、「頑張って偉いね」となる。

頑張っている私が好きは、こまっしゃくれた子役の演技のようだ。
だから、単純に悪寒が走る。
どんな反応も嘘臭いのだ。
どうしてそうなるのかは分からない。

しかし、逆に見抜けない、見えない人も問題だ。
見えない、見抜けないというのは、「その人」を見ていないからだ。
その人の表した、例えば、言葉面だけを見ているのだ。
どうして、その言葉が出てきたのかは見ていないという事になる。

そして、その言葉面を、自分なりのストーリーの中に埋め込んでいるのだ。
そうなると、お互いに何を聞いているのか、何を見ているのかさっぱり分からないという事だ。
そういった「相互は無関係」という、関係を成立させているのが、社会だとも言える。

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