当人の問題だから
「出来た」というのは何を指しているのだろうか?
どんな事でも、「出来た」という客観的な代物はないと仮説を立てよう。
もちろん、数学の式が解けた、は「出来た」だ。
その類つまり、定義が明確なものには出来たはある。
しかし、それ以外の事やモノには、取り組んでいる人の出来たがあるだけだ。
つまり、そこに客観的に価値を統一されているものは無いのだ。
と考える方が正しい。
人それぞれに異なる、という大前提がある限り、そこに個人の違いがあるから、「これが正しい」とは言えないという事だ。
その当人にとって正しいかどうかだけである。
であるから、当人は何を正しいとしているのかが問題になるという事だ。
その自分が正しいとしているものに向かって、稽古なり勉強をしているのである。
そういった事は、例えば道場やワークショップを見ているとよく分かる。
その意味では、叱らない、当人を認める、という西洋の教育というか他人との関わりは正しいと思える。
「何でもOK!」だ。
それはその人だけの問題だからだ。