へこたれるな2

打たれ強い、とか、へこたれない、という気概というか、気持ちを持っているという事が、人間的に「強い」という事だろうと思う。
それ等があるから、何があっても自分として歩けるのだ。

しかし、この強さは育つものなのか、生来のものなのか、そこのところが分からない。
自分の事を振り返った時、よくある話のように幼稚園や小学生時代は、皆んなの中に入れなかった。
いわゆる人見知りという奴だろう。
幼稚園の頃は、叔母に毎朝幼稚園の門の前まで送ってもらい、門の中から先生が声を掛けてくれなければ入れなかった。
この光景は鮮明に覚えている。

そこから考えると、私の打たれ強さはここには無い。
小学生の頃も似たり寄ったりだ。
ただ、私自身が学校にも勉強にも興味が無かったので、学校を抜け出したり学校に行かずにさぼる事を覚えていた。
この行動は、もしかしたら打たれ強いという事の下地だったかもしれない。

と考えると、生来のものだろう。
しかし、それは特別なことでは無い。
その生来のものが発揮されるチャンスがあるかどうか、タイミングに巡り会えるかどうか、そんな事では無いかと思う。

今、生きているのだから、間違いなく誰しも絶対に強いのだ。
打たれ強いし、へこたれないのだ。
しかし、それを発揮させない要因を、これも誰しも持っているからだ。
それは、常識観だったり、固定観念だ。

常識観も固定観念そのものは持っていて当たり前だ。
ただ、それを自分で作り出す必要があるだけだ。
世間の風潮や、世間の流れに惑わされることなく、自分自身の独自の常識や固定観念を作り上げる必要があるのだ。

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