深さはどこから来るのか
ティルマンは「明鏡止水」という言葉をいたく気に入ったようだ。
それは、彼自身が年に何日か決めて、カナダまで座禅を修養しにいっているからでもある。
観客など、皆んなから見えている外側のダイナミックな動きの中にある、静寂を求めているからだ。
コンタクトの実際を教える為に一緒に動く。
そんな時、彼は私の内部を感じ取ろうとしているのが、彼の身体を通して伝わってくる。
「日野はどうして静かなのだ?」と質問をしてくる。
感情の話、中でも怒りについての質問が多い。
そうなると、武道を体験させるのが手っ取り早い。
武道のクラスに出て、腕力の強い人に相手をしてもらう。
そうすると感情が騒ぎ出す。
「で、どうすれば良いのか」の実際的訓練になるのだ。
彼のように疑問が漲っている場合、その体験で一挙に手掛かりを掴むことが多い。
こんな会話を日本人と交わしたいのだが、未だそういう人とは巡り会えない。
彼と一緒に動くのは、無条件で楽しい。
もちろん、何時も何も決めない、全面即興だ。
今回のワークショップを開いた理由の中に、そんなことも知って欲しかったというのもあった。
言葉で会話をするよりも、身体で語り合う方が、遥かに間違いが少ないし伝わりが早いのだ。
もちろん、その身体でなければ無理な話だが。
どうして無条件で楽しいのかというと、スリリングだからだ。
何がどうなるのかは全く分からない。
もちろん、ティルマンも私がどう切り返すかが分からない。
だから、関係の中に緊張感が自然と漲ってくるのだ。
それが見ている人たちを巻き込んでいく、一つの側面でもある。