一つの感覚を磨くのに10年はかかっている

昨日は、スペインから神田道場に稽古にきた。
その中の一人は、熊野道場へ3年ほど通っていた。
だから、「腕力を使わない」ということの稽古が、私の稽古だと理解できている。

しかし、そこを身体で理解していない人には、腕力か腕力を使っていないか、そこを自分で検証出来ない。
つまり、自分は「何をしたのか」を分からない、知らないということになる。

もちろん、腕力を使うのが悪いとか、間違っているということではない。
そこには直ぐに成長限界が来るよ、という話だ。
熊野道場に通っていた彼は、私のことをもっと自分の周りの人に知って欲しいと思って、武道仲間を連れて来てくれる。
それは嬉しいし有難い事だが、残念ながらそうは簡単に、人はこの「腕力を使わない」という考え方を、頭で理解は出来ても身体で理解は出来ない。
ましてや、腕力解決して来た人には、もしかしたら不可能かもしれない。
それはその人にとって、必要ではないからだ。
腕力だけで十分やっていけるからでもある。

神田道場に通う古い生徒達は、腕力か否かを判別できる感覚が磨かれている。
それだけでも10年はかかっている。
10年もかかった、という話ではない。
10年はかかるし、もしかしたら早い方かもしれないのだ。
その感覚が備わっていないと、それこそ「相手の力を利用」できることはない。

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