武道ということ2
「何を言いたいのか分からない」と、何時も首をかしげてしまう。
それはネットにある言葉だったり、会話での事だ。
それこそ昨日の「インチキ」の話ではないが、どんな「質・レベル」で、その言葉を使っているのか分からないからだ。
その言葉の前後、あるいは、動きに、その言葉が見えないからだ。
つまり、言葉と実際が違うということだ。
だが、それらに気付かない人達には分からないのだろう。
私の動画で、それこそインチキ臭いものが山ほどある。
そこには、二つの意味がある。
一つは、やろうとしている要素が動きとして明確かどうか。
一つは、受けを取る側がこちらの意識の変化を捉えられるか。
この二つを稽古しているのだ。
だからではないが、その条件を稽古している姿だから、インチキ臭く見えるのだ。
動きそのものを「技化」する為のものだから、明確な条件を作らなければ組み上がっていかない。
それは、逆に言えば、受けを取っている人は、仕掛ける側の意識の微妙な変化をキャッチし、即座に変化するという稽古をしているのだ。
この事で、昔面白いことがあった。有名な武術家が道場を訪ねてくれた事がある。
ご自身の技を紹介する為だ。
その時、私の生徒たちを相手に色々と見せてくれた。
しかし、しかしだ。
この時、この先生の技は何一つ私の生徒にはかからなかった。
先生は焦っていた。
「どうして?」
先程の、受けの稽古、技がかからない稽古をしているからだ。
つまり、感覚の鋭い人は相手の動きのきっかけ、意識の変化、攻撃の意識は、手に取るように分かる。
だから、君子危うきに近寄らずだったり、危険→即逃げるが実際化するのだ。
つまり、こういった受け手側が鋭くなっていく稽古が、武道の稽古では必須だ。
でなければ、仕掛ける側の「自分がやりたい」を助長させるだけで、「自分がやりたい」は「思い通りにならない」という実際を体感することが出来ないのだ。
武道の本質へ進めないのだ。
思い通りにならないから、工夫を重ねる。
その工夫を運動的でもあれば考え方でもある。
もちろん、精神が土台になる。
そういう、仕組みがあることを「武道の稽古」と言うのだ。
私のインチキ臭い動画は、こういった受け側の鋭い感覚を欺くという行為の現れだ。
しかもゆっくりと行う。
時間があるということは、意識がブレやすい。
それをブレないようにする、という私の稽古でもあるのだ。