自分を好きなのか、好きではないのか

身体の持つ可能性は計り知れない。
例えば、現在行われている平昌オリンピック。
ここで繰り広げられる競技は、それこそ身体の可能性を存分に見せてくれている。
もちろん、私が出来るのではない。
身体の可能性だ。
夏のオリンピックや様々なスポーツ。
ダンスや舞。
職人たちの匠の技。
探せばキリがないくらい、様々な形で身体の持つ可能性を私たちに見せてくれている。
もちろん、それを動かしている思考や気持ちにも可能性が同時にある。
しかし、では一体そういった一流選手や匠と、私達とはどんな違いがあって、異次元の世界の人のように見えてしまう、思えてしまうのかだ。
それは、思考の癖が大きく関わっているのだ。
その典型的なのが、「理解する癖」や「納得する癖」だ。
つまり、答えがすぐに欲しいという欲求が、そこを統御しているのではないかと考える。
私はワーク・ショップでも教室でも「やれるようになるまでやれ」と言う。
その「やれるように」というのを決めるのはその人だ。
しかし、その人の中に「答えがすぐに欲しい」という気持ちがある限り、それはやれるまではしないし、やれたとしてもレベルが恐ろしく低いものになる。
私たちに、可能性を見せてくれている人達は、決まって答えを不明にしている。
それは「自分の課題を見つけた」と答えている事で分かる。
つまり、果てしなく進んで行きたいという欲求を持っているということだ。
もちろん、オリンピック選手ならば金メダルを目指すだろうし、ワールドカップなら1位を目指すだろう。
その過程として、「自分の課題を見つけた」なのだ。
全く違う角度から言えば、オリンピックなど世界的な競技で、ベスト10あたりに行く人は、果てしなく「自分が好き」だとも言える。
自分を好きだからこそ、自分を高めようとして当たり前だ。
直ぐに答えの欲しい人は、「自分を好きではない」のではなかと思う。

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