在りよう

例えば、昨日の「気付く」だが、そんな話を講演の時にも話す。
あるいは、ワーク・ショップや教室でも話す。
それは、何らかの形で「何かの自分」「自分を変化させようとしている人」のヒントやキッカケになれば良いと思うからだ。
人は、そういう具合に自分の知らないところでも、人の役に立てるのだ。

こういった話をした時の反応も二つに分かれる。
「良い話を聞いた」とする人と「……」の人だ。
もちろん、どちらが良い、どちらが悪いという話ではない。
二つに分かれるということだ。
そうか、もう一つ別の反応もある。
それは、すでに自分に挑戦している人の反応もある。

昨日は「武禅おさらい会」だった。
沖縄ワーク・ショップを受けた直後の人もまじり、レベルの高いものになった。
そうなってくると、真剣に取り組んでいる人と、自分で真剣だと「思い込んで」取り組んでいる人とに差が生まれる。
もちろん、出来た出来ないという差ではなくて、取り組み方の差だ。

「思い込んでいる人」は、その差に対して何も感じ取れないが、本当に真剣な人は感じ取る。
そうなると、思い込んでいる人が邪魔な存在になってくるのだ。
それはお互いにアドバイスをする時に、その事が見えてくる。

その打ち上げの時、その「場」にいる人と、「場」にいない人とに分かれた。
場に居ない人というのは、直ぐに自分の世界に入ってしまう人だ。
俗に「考えている」というが、わざわざその「場」で考えることも無い筈なのに。
これをつくづく考えると、徹底的にてんてこ舞いするような職場や、何かしらそういった、考える間もないという体験がないからではないか、と思う。
考える間もないというが、確かに考えてもいるのだ。
ただ、考える速度がどんどん早くなっていくし、的確な行動が増えていくのだ。
逆に、ゆったりとした時間しか体験していない人、結果がその場で見えないことした体験のない人は、実際の場の流れでの変化を分からないし、感じ取れない。
だから、「自分の世界に入っていれる」のだ。
そういった人は、「現実社会とは」ということを考えて見る必要があるだろう。
今から「東京・明鏡塾」だ。

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