気付くというのは
「気付いた?何を?でぇ?」
これは、私のお得意のパターンの一つだ。
色々な人が、色々な状況で「気付いた」という。
そこを一括りにすると、「理解しました・納得しました」ということだろうと思う。
というのは、「気付いた」という人に限って、その後を見ると何も変わっていないからだ。
にも関わらず、相変わらずその言葉を連発している。
つまり、先程の「理解・納得しました」は自己完結した、という意味合いを持っているのだろうと思う。
自己完結しているから、そこから何かが発展したり、前に進むことはない。
世間でいうところの「気付く」とは、そういうことなのだろうと理解した。
私の言う「気付く」はそうではない。
気付いた問題を行動を伴って超えて行くことだ。
だから、時間がかかる。
しかし、その結果自分自身に何らかの発展が付いて来る。
先日、東京で皆が祝ってくれた古希のパーティ。
その2次会での話だ。
今から10年ほど前の「武禅」に、現在夫婦になっている男性と女性が、毎月通って来ていた。
埼玉から熊野までだ。
女性が余りにも幼稚で、自己完結だったので、男性に結婚はするな、と忠告していた程だ。
しかし、女性は何度目かの「武禅」でそんな自分に気付いた。
その時、埼玉へ自動車で帰る車内で、ずっと泣いていたという。
そして、そんな自分に本当に吐き気がしたそうだ。
埼玉に帰ってから、全ての自分の行動を振り返ると、情けなくなり直ぐ実家に戻り両親に謝罪した。
それから、一つ一つの行動を意識的に行うようにした。
すると、言語障害的に言葉が出なくたった。
つまり、自分が話そうとしている言葉も、自分の言葉か誰かの言葉かを確かめていたからだ。
もちろん、その後は見違えるような女性になった。
男性が私に「近頃、言葉が少なく話さなくなりました」と私に相談したので「そうか、それなら結婚したらええで」と答えたという。
私は忘れてしまっていたことだ。
「気付く」とは、そんなことだと私は思う。
完全に何かが変わってしまうことだし、その事は誰の目からも見える事なのだ。
この女性の「そんな自分に吐き気がした」という感性を持っているから、何かをキッカケとして変化したのだ。
私自身も「気付いた」体験は沢山ある。
その都度、確かに身体にも変化が現れていた。
こういったことは他力本願的、自己啓発セミナーでは決して得られる事はない。
どこまでいっても「自分自身が自分自身として、自分自身に心底気付く」これ以外に公式はないのだ。
私のいう「気付く」は、身体そのものも変化させる力を持っているものだと定義する。