視力が悪いから分かること

若干眼が悪い人、もちろん、視力が0.1とか0.3辺りで、くっきりと周りが見えない人だ。
昨日飲み会で、一寸試してみたことがある。
その眼がくっきりと見えない人に対して、正面向いあうのだ。
そうすると、向かい会おうとしている人と、向かい合おうと思っているだけの人との違いを明確に分かるのだ。
つまり、「眼」が重要なのだが、私のいう「意思が向いている」ということを体感として分かるということだ。

私達は、眼で見て判断する。
ここが曲者なのだ。
判断を通すことになるから、自分の分かることしか分からない。
そして、ある意味での社会性があるから、「嫌われたくないとか、間違いは駄目」等と余計なフィルターを通す。
その事で、眼の前の人が、自分にとって本当に話してくれている人か、そうでないのかを選別出来なくなるのだ。

ところが、視力の悪い人がメガネを外すと、ハッキリと目の前の人が見えないから、眼での選別は出来ない。
そうすると、身体が働きだす。
身体がレーダーとなって、受信しだすのだ。
そこで感知されるのは「意思の方向性」だ。
「駄目、全然私に向いてないわ」と選別することになる。

見えることが、ある意味でどれほど判断を鈍らせているか分からない。
これは、どんなことにも当てはまる。

信号待ちをしている時、聾唖の子供達が話していた。
身体から話している姿につられ、思わず微笑んでしまう。
これほど、感情豊かに話す、健常の子供達をあまりみかけない。
どうして?
見える、話せる、聞こえる、言葉の意味が分かる、ということが、便利なのだが、それに頼りすぎると、大事なものが育っていかないということだ。

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