違和感から考える

「違和感」は日常生活の中が感じやすい。
それは、日常を日常的に過ごす人とは異なる人だからだ。
あるいは、その場を過ごす人とは、異なる行動をするからだ。
日常的を過ごす人達の流れとは、異なる強い思いや意識を持っているとはみ出るのだ。
女性なら「この人、変」と直感することがあると思う。
その変な人は間違いなく、日常的に過ごす人と異なる意識を持っているのだ。
いわゆる痴漢や、不審者はこの類だ。
ちょくちょく紹介しているように、私は痴漢を数回捕まえたことがある。
但し、その現場ではなく、その前後だ。
前で捕まえた時は、プラットホームを歩く素振りがおかしかったから、自然と「あれぇ」となり注視していると、視線がおかしい。
で、そのおっさんに近寄り「何をしているの?」ということだ。
その後も同じ感じだ。
だから、一口で違和感と言っても、そこにある状況で起こっていることは違う。
しかし、この違和感は防衛本能を根っ子として持っているのだ。
だから「殴ろう」「投げよう」という攻撃に対して働くのは当然だ。
同じ様に、「〜しよう」という思いや意識にも反応して当然なのだ。
それが、人の成長と共に、細分化されたり、成長していったり、精緻になっていくのだ。
そうなると、日常の多種多様な場面で、違和感というレーダーを使えるようになるのだ。
私は違和感という感覚を、「感触」だと捉えている。
感覚から感触へと、言葉を変えること、そのことがより具体へと進められるからだ。
感触と捉えるから「拒絶」や「親和性・浸透性」を具体的な実感として捉えられるようになったのだ。
しかし、こういった防衛本能を根っ子としている感性も、モバイルを片手に、あるいは、イヤホーンで意識を「その場」から離れている場合は作動しない。
そして、当然退化していく。
そうなると、レッテルでしか色々な物事や人を判断出来なくなる。
であれば、人としての喜びや悲しみ、怒りはどんどん退化するし、こころの葛藤が無くなってくる。
こころの葛藤が成長の為の原動力なのだが、そこは育っていかないことになる。
それを止めるのは自分でしかない。

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