真剣に、というのは

今日は年に二度の特別養護老人ホーム研修の打ち合わせだった。
少しお腹が空いていたので、おっさんというか、爺というか、男二人で「ぜんざい」で打ち合わせだ。
「焼いた餅がええで」ということで、お餅が二ケ入ったぜんざいにした。

「真剣」とは何か?どうすれば?ここが何時も話の中でぶつかる壁だ。
逆に、我々はどうして真剣になれるのか?だ。
真剣ということの状態の一つは、こころが動くことだ。
熱くなることだ。
多分ここはそれぞれの人が体験的にしか、それこそ体験できないのだろうと思う。
もちろん、そこには世間の風潮という環境の問題が立ちはだかる。
現代の風潮とは真逆だからだ。

自分の力で物事と真正面から向き合う。
あるいは、向き合わざるを得ない状態になる。
そんな時にこころが動くのだ。
その動きが癖化すれば、真剣という状態が状態ではなく「真剣な人」になるのだろうと解釈する。

もちろん、そこにも逃げ道はある。
そのことに客観的になれば逃げることは出来る。
言葉という便利なものが、逃げる為の道具になってしまうのだ。
もちろん、当人にはそのつもりがない場合が多いが、結果として「逃げた」となるのだ。

私の経験だが、逃げる為の言葉は沢山ある事に気付く。
とにかく、グチャグチャと当人と関係のない言葉を沢山持っている人は要注意だ。
人なのだから、こころが動いたり、こころが通じるのは当たり前だろう、というのが持論だが、どうもそれはそうでもないようだ。
しかし、これがなければ特養で、介助や介護をされる人と関係を築くことは出来ない。
具体的には言葉のやりとりなのだが、そこに「こころが有るのか無いのか」が、そこの鍵になるのだ。

くそ丁寧な言葉をいくら使えても、おばあちゃんのこころを動かすことは出来ない。
くそ丁寧なマニュアルではなく、丁寧な人間にならなければ駄目なのだ。
そこをどうするかだ。
もちろん「明鏡塾」でもこれが問題なのだ。

明後日は大阪で「明鏡塾」の体験セミナーがある。
真剣に、患者さんを良くしたい、関係を築けるようになりたい等の、「思いのある人」是非、そのこころある思いを実現するために体験をして欲しい。
https://www.meikyojuku.com/

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