次は?知らんで
「次の機会に」つまり、何らかの出来事が今回は行けないが、次は時間を作るから、という意味を持つ。
もちろん、面倒だからこの言葉で逃げる場合も多い。
しかし、実際に「次の機会には絶対に」と思っている人もいる。
「次の機会」は有るのだろうか?有るとも言えるし、無いとも言える。
こういう話もよく聞く。
それは「◯歳の時に、日野さんのワークを知っていたら違った」というようなものだ。
その場合は「今だから理解できるのであって、◯歳の時なら無理でしたよ」と答える。
「次の機会に」という人は、どうして「次も有る」思えるのだろうか。
その人が、人生を画一的に生きているから「次はある」と無条件で思えるのだろう。
「次が間違いなく有る、日常や社会生活」を送っているからだろう。
その感覚は、私には不思議でならない。
もちろん、私自身は「次もやろう・明日もやろう」と「今」は思っているが、それは分からない。
俗に言う「何時何時何が起こるか分からない」という標語の類ではない。
その事よりも大事なことを思いつくかも知れないし、逆にやっていることを阿呆らしく思って飽きてしまうかもしれない。
だから「次」と言われたら「そうですね」とは言うが、興味が無い人、あるいは、呑気な人なのだなと思う。
何時何時何が起こるか分からない、のはその通りだから、私はそのように生きている。
しかし、天災がくる確率よりも、私が何かを思いついたり、アホらしくなる確率の方が遥かに高い。
私自身も動いているからだ。
動いているというのは、頭をフル回転させているという意味だ。
だから、見えている日常は私の氷山の一角であって、氷山そのものではない。
もちろん、それは私だけのことではなく、全ての人は同じだ。
そういう何もかもが不確定な社会で「次の機会に」は無い。
例えば、先日100回で終えた「武禅」。
「次の機会に」と言っている間に終わった、とメールを来れた人がいた。
「残念でしたね」と返したが、人生そんなものなのだ。
他人は、決して間違っても「わたし」の都合で生きてくれているのではないからだ。
12月1日から東京ワーク・ショップです。
師走ですが、年末前に汗を流しましょう!
■東京ワーク・ショップ12月1.2.3.4日