怪我の功名

身体に故障があるのは、不便だが新しいことを考えるヒントにもなる。
故障がない時は、稽古として意識されている箇所があるが、故障があるとそこが使えない場合も有る。

ぎっくり腰ということで、腰を庇っているために背中から、股関節を意識的には使えない。
昨日の稽古はそうだった。
だからこそ、そこから考え出し、それ以上の結果をもたらそうとする。
私のクセだ。
「怪我の功名」というやつだ。

私は基本的に止まるのが嫌いだ。
前に行くことしか考えていない。
だから、故障→安静、等という私のクセに逆らう事はしない。
だから、何時ものように暴れられない時は、静かに暴れる。

丁度、スペイン人が二人来ていたので、そういった静かでありながら、という稽古をした。
やはりキーワードになるのは「触れる(関係→感じる)」になる。
これが一体どんな働きをしているのかは分からないが、そこで起こる事は全員が目に見ることが出来る。
こちらとしても、説明できるのは、「どこをどう感じてどう動いた」だけだ。
ここの謎を紐解くには、個々に取り組むしか無い。
教えられないのだ。

こういった「感じる」という稽古が稽古の主体になっていった時、「人は人に教えることが出来るのか」ということを考えるようになった。
私が「感じている何か」を、誰かにイメージとして、あるいは比喩として伝える事は出来ても、そのものを伝えることは出来ない。
そういった実際が「教えるとは何か」と考えるようになったのだ。
だから、ここには「伝える→取り組む」という関係しか実は無いということが明確に見える。
その意味で「教師」は無いということだ。

ぎっくり腰で転ぶのは難しい。
しかし、膝の使い方一つで転ぶことは出来る。
そんな事も、故障が教えてくれる。
あるいは、足からの連動を使って、手の握りまで感覚を通すのは難しい。
しかし、丁寧に身体を辿ることで可能だ。
そんな緻密な稽古をした昨日だった。

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