まっすぐな心
昨日の「まっすぐな心」というのは何だ?と疑問を持つのは、まっすぐな心ではないのか?と、重ねて疑問を持つ。
ここが言葉の繋がりのややこしいところだ。
まっすぐだから「何これ?」となるのだ。
では、まっすぐではなかったら、というのは、どういうことか。
先に判断してしまっていることだ。
判断として「分かった・分からない」の場合は、まっすぐではないのだ。
だから、分かったの場合は、表情の変化が無いか乏しい。
私は、会話をする時、相手の表情や目に注意を払う。
そこに、その人が見えるからだ。
もちろん、当人は無自覚かもしれないが。
何れにしてもまっすぐの場合は、表情豊かな反応になる。
そして、関係の扉を開いて行くと、表情はどんどん良くなっていく。
それは、自分の持つ「先入観や思い込み」の殻が、どんどん少なくなって行くという事だ。
「分かった」の場合は、先入観や思い込みを残した上での理解だから、表情とは繋がらない。
つまり、感情が動かないということだ。
ここさえ、切り抜けていけば、誰でも表情豊かな人になる。
そうすると、その周囲の人も豊かになるという連鎖が起こるのだ。
が。