聴くは人の生体反応を呼び起こす

「話を聴く」というワークがある。
聴くとは何だ?どういうことだろう?そんな問題提議を兼ねているワークだ。
その問題提議を持てなければ、もちろん、解決しないし、それを実現できるようにはならない。
入口は只の聞くだが、実は奥行きが相当深い。
もちろん、ここには「関係」という目に見えない間柄が作り出されている。
というよりも、ここを深くするためにあるものだと解釈した方が良い。
そうなると、そこに色々な現象が起こるのだ。
大方の人は「難しいです」と簡単に片付けてしまう。
何がどう難しいのか?というところには行かない。
当然、いくらやっても「出来ない」。
むろん、耳では聞けているが、相手が一生懸命話しかけてくるとすると、その相手からは「あなたは聞いてくれていない」と言われてしまう。
聞いてくれているようには、思ってもらえないのだ。
もちろん、日常では時間に追われているので、そんな話にはならない。
だから、そこに気付きようもないのだ。
「聴く」を成り立ち辞典で調べると、「耳」の象形と「階段」の象形(「突き出る」の意味)と「上にまじないの印、十をつけた目の象形と心臓の象形」(「まっすぐな心」の意味)から、「(耳を突き出し、まっすぐな心で)よくきく」を意味する「聴」という漢字が成り立ちました。とある。
確かにそういうことだ。
一般的な辞書には、積極的に耳を傾けることとあるが、そんなものは、当たり前のことであって、それではない。
生物としてのものではない。
つまり、そこに起こる人の生体反応は考慮されていないのだ。

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