こころの働きとして
「受け入れる」という言葉が嫌いだ。
なぜかというと、その事は実体として、あるいは、こころの働きとして既に起こっていることだからだ。
つまり、その言葉を持たなければ、「受け入れる」状態にならないのであれば、絶対にこころの働きとして、にはならないからだ。
判断として「受け入れる」としているから仕方がないが。
判断としての答えは、判断を超える事態があれば必ず「受け入れられない」が起こる。
それはどんな場合でも同じだ。
判断とは、自分自身だけが持つ体験や思考の範疇だけでの事だからだ。
もちろん、その言葉を使っている人達は、そういった意味合いで使っていないのかもしれない。
こころの働きではなく、判断としてのものかもしれない。
しかし、それは残念ながら私には分からない。
私にとっての言葉の多くは、こころの働きと同期している、同期させるようにしているからだ。
もちろん、必ずしも判断が間違っているのではない。
日常生活を無事に過ごせるのも、判断や習慣のおかげである。
しかし、その事と、物事を考えるのは全く別のことだ。
習慣化されたことが、自分に悪癖を付けている場合も有る。
私はそんなことに気付いていく事を、習慣化している。