同じ土俵ということ
「同じ土俵に上がる」好きな言葉の一つだ。
土俵が違えば、比較できないからだ。
つまり、自分はどれくらいのレベルなのかを、客観的に認識出来ないということだ。
多分、15年以上前になると思うが、名古屋でワーク・ショップを開いていた時期があった。
そこで受講してくれていた、スポーツ・トレーナーを育成する専門学校の先生。
この先生がよく愚痴っていたのが「生徒たちは、卒業したら自分と競合するということを分かっていない。大丈夫なのだろうか」だ。
多分、今「明鏡塾」を受講してくれている、鍼灸学校の先生も同じ思いを持っているのだと思う。
多分に、先生と生徒という関係、また、学校という特殊な空間、そんな事が、この自覚の無さを生み出すのだろう。
その意味で、「同じ土俵に上がる」という考え方を、どこかで育てる必要があるのだ。
私は逆に、常に同じ土俵に上がる、ということを目指して来たとも言える。
仕事で、先輩がいたり、その先輩がいたりする。
その人達をライバル視していた。
早く仕事を覚え、その人達と肩を並べることしか考えていなかった。
それは、水商売をしていた頃も、ジャズをやっていた頃も、武道も同じだ。
武道の場合は、その視点を持っているから、稽古法を考えるようになったのだ。
どう考えたのかの、一番最初は、全員同じ稽古をした場合、運動能力の差や、向き不向きが優先され、結局その稽古がどれだけ自分に反映しているのか分からない、という気付きからだ。
最初の道場では、2ヶ月くらいで帯の色が変わっていった。
しかし、そうならない人もいた。
その時、その差は私とその人との運動に関わる能力差であって、その道場の稽古による理解度の差ではないことに気付いたのだ。
であれば、この稽古法は間違っていると感じたのだ。
つまり、宗家とは同じ土俵に上がることは出来ないということが、一番最初から決められているということだ。
もちろん、宗家と肩を並べられるかどうかは、全く別の問題だし並べる筈もない。
だからこそ、それは別にして、宗家はどんな要素持っているのか、そして、その要素を学んでいくのが稽古だと考えるのだ。