背水の陣で会話を

「明鏡塾」でも「声を届ける」ワークをする。
「聞こえる」と「自分に言われた」と「自分に届いた(響いた)」、これらは、全く違うものだ。
この根底にあるのは、大阪弁では「ほんまか?」であり、標準語では「本気か?」で、本気の裏には背水の陣という切実な自分が有るかどうかだ。
もちろん、背水の陣というのは後付だ。
その時、その瞬間には、一切の雑念なく相手に向かっている、「届ける」というだけの自分だ。
当然、それは自分にとってリスクのあることかもしれない。
それを顧みず、という点で背水の陣なのだ。
日常では、「自分に言われた」レベルで行ける。
しかし、大方はそこすら外している。
誰に話しているのかも分からないのだ。
もちろん、当人は目の前の人に口を開いているので、その人に話していると信じて疑わない。
その信じて疑わないのは、自分の話していることが、相手は理解できているのかどうかを、全く気にせずに時間を進めていることから分かる。
同時に、その話の内容がそれ程真剣なものではないからであり、話す相手が「あなた」でなければならない、というものでもないからでもある。
もちろん、大方は「それは違う」と反論するだろう。
しかし、どうして「わたし」と「あなた」で、そしてその話題でなければならない理由があるのだろうか。
もちろん、それらは無自覚ですから、そういった判断の元に行っているのではない。
日常に対して、どうしてそれほど厳密に、あるいは、それ程目くじら立てることではないだろう、とおっしゃる方もおられるだろう。
もちろん、そうだ。
しかし、どんな時間であっても、「自分の人生の一部であり、相手の人生の一部でも有る」という事実から考える必要があるのだ。
逆に言えば、思い切りくだらない、思い切りどうでも良いような話題だからこそ、真剣に話、真剣に大笑いする必要があるということだ。
先日、生徒の家を訪ねた時、犬が私に吠えていた。
良い番犬だ。
「私に」吠えているのだ。
それは「見て分かる」レベルではなく、犬の声で分かるレベルだ
。家の人が出てきて、私と親しく話をしだすと、その吠える声は変化した。
相手をして欲しいという声に変わったのだ。
犬ですら、誰に吠えるのかを特定しているのに、人はどうして特定しないのか不思議でならない。
もし、その番犬が私を不審者とみなしたら、犬は私に届くように、響くように吠え方を変えていた筈だ。
人が真剣になって、その人に大事な事を伝えようとした時、そうならなければおかしいのだ。
しかし、残念ながら「聞こえる」レベルの日常しか過ごしていなければ、いくら真剣に伝えようと意識しても出来ることはない。
医療従事者であれば、患者さんに声をかける内容が内容だけに、絶対に「届く」レベルでないと駄目なのだ。
それが患者さんから「信頼を得る」の一つのキーワードだ。
でなければ、そこに強烈な違和感を患者さんに与えるだけで終わるからだ。
「明鏡塾」体験セミナーは7月16日です。
http://meikyojyuku.com/

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