不安はどこから
東京ワーク・ショップは6月2.3.4.5日です
http://hinobudo.wixsite.com/workshop/workshop-1
「不安」は「安心」を求めるから起こることだ。
と、大人には言うが、それは本当だろうか。
ふと思った、そんな問題ではないだろうと。
もっと、もっと根源的な、あるいは、本能的な、とでも言おうか。
よく言われるような「死」というものに対する、漠然とした感覚から生じるのか。
それも違うような気がする。
一つの仮説として、「関係」というものを感じられないから、あるいは、感じ取れないから生じるのではないか、という事だ。
もちろん、そこには目に見える親子や夫婦、というような、個別のものではない。
しかし、それを起点としている場合が多い。
親子という現れがあるから、気付ける、あるいは育つ、もしくは発生する何か。
私は本能の働きの一つとして、違和感を感じ取る能力があるという仮説を持っている。
それは、生命の存続や保存と関わる選択をすることだからだ。
これは食べられるのか、食べられないのか、こちらは危険なのかそうでないのか、これは敵なのか味方なのか。
そういった、生命にとっての重要な役割が本能が引き受けているだろうと、現在のところ解釈している。
ここで、この違和感を感じ取る能力が、これは敵ではない、食べられる、危険ではないと感じ取れるものがある、という事が安心を作り出しているのではないか、ということだ。
逆に、ここが定かではないと、不安がこころの片隅にくすぶり続け、大人になった時芽を出すのではないかということだ。
もちろん、こんな事は分からない。
しかし、これが私の意見だと置いておかなければ、また考えなければ、それ以外の考えに出会うことも無い。
自分で考えてみることの大事さだ。
明日から「明鏡塾」5期が始まる。
今回は、看護士の方が二人も受講してくれる。
後、医師や歯科医、理学療法士、柔道整復師、整体師他だ。
「明鏡塾」では「関係」を扱っている。
当然、この「不安」という問題も一つのテーマだ。
ここでは「関係」ということが、不安を払拭するとして行っている。
今期の6回のセミナーで、もしかしたらこの仮説に対して、新たな視点が生まれて来るかもしれない。
それも楽しみの一つである。