技とこころは一心同体2

「技術とこころは一心同体」だという事に気付いたのは、武道探求の中でのことだ。
「技」を言語化していく中で、また、分析できるところまで分析しようとしている時に気付いたのだ。
ちょくちょくブログでも書いている「力を抜く」という実際は、どういうことか?という疑問からだ。
一瞬のことであれば、それは誰にでも実現可能だ。
しかし、一つの流れがあり、その中で力んでしまう状況が起こった時、その「力を抜く」は、たちまちの内に崩壊してしまう。
となれば、その流れを徹底的に訓練すれば出来るのか、というと、確かに流れに習熟するから、出来ているように見える。
しかし、また別の流れをすれば、その事が応用出来ない。
ということは、その「力を抜く」はその瞬間だけ実体と伴っているが、その瞬間以外の時は違うのだから、その言葉とは似て非なるものということだ。
と考える内に「力を抜く」という実体がなければ、そうはならないという事に気付いたのだ。
つまり、力が抜けている自分自身、ということだ。
もし、日常で対するものを持たない状態であれば、誰でも力を抜くことが出来る。
しかし、好むと好まざるとに関わらず、色々なアクシデントが起こるのが日常だ。
その時に、力が抜けた対応が出来るのか否か。
となると、必ず力んでしまう、構えてしまう。
ではどうすれば良いのか。
そこで、方法を模索する。
であれば良いのだが、大方は方法ではなく近道、あるいは、逃げ道としての手段を模索してしまうのだ。
もちろん、それは無意識的にである。
それを繰り返す事で、結果、その手段が目的になるのがオチなのだ。
ここでの秘策は、「力んでしまう自分」に気付くことしか無いのだ。
但し、本当に気付くことだ。
つまり、自分自身の問題として四六時中頭に有るのか無いのかである。

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