生活が動機なら達成する
漁師さんが連動を使って、その成果を実感してくれている。
若い漁師達には負けないという。
年老いても負けない、その実感を持って貰えるのは、ほんとに嬉しい限りだ。
その漁師さんに、カツオを釣る時の「食い付き」について質問した。
「食い付いて0コンマ何秒かが大事で、餌をカツオに飲み込まさなかったら釣り上げられないでしょう」ということだ。
そしてその「0コンマ何秒は、人によって時間の差があっても体得出来るのですか?」ときいた。
「それは違いますわ。出来る人は若くても出来るし、いくら年数を経ても出来ない人もいます。出来ない人は辞めていくしかありませんけどね」出来ない人は辞めて行く、というのは真っ当だ。
この場合の出来ないは、完全に生活と密着しているからだ。
釣れなかったら給料にならない、ということは、生活が出来ないことと繋がっているのだ。
生活と密着している技術は、能力がどうであれ相当達成できる可能性が高い。
それは、動機が生活をする、ということで純粋だからだ。
その意味で、連動を自分のものにした漁師さんは、ものにしなければ生活が出来なくなる、という切実な願いからだ。
釣れなくて漁師を諦めた人は、その能力が無かった、つまり、向いていなかっただけだ。
それが、分かる事が素晴らしい。
それが分からなくて、つまり、自分の向き不向きが分からなくて、何時までたっても右往左往している人が多いからだ。
自分が選んだことが、自分に向いていなければ続かない。
辞めるという時、そういった客観的基準があるのは素晴らしい。
私自身は「仕事」という言葉が好きだ。
もちろん、言葉は人によって取り方が色々だ。
そのどれもが、それぞれに正しい。
私の場合、終戦や復興、高度成長など、それぞれが、身近なものだった。
その環境の中で、つまり、周りの大人達が汗水流して働く姿に「仕事」を見たのだ。
だから、幾つ何十歳になっても、仕事→生活という意識があるのだ。
もちろん、現代的ではないかもしれない。
私にとっては、そんなことはどうでも良いことだから関係ない。
何を言いたいのかと言うと、今まで色々な職業をして来た。
それは「好き」だからではない。
「これで、生活しよう」という動機だ。
何で生活するか、それだけだ。
逆に言うと、「何が好きか」を知る為だったのかもしれない。
ジャズも武道の入口も同じだった。
「それを仕事にしていこう」と決めたのだ。
だから、この漁師さんと同じように、独学で手に入れていったのだ。