稽古納めだが
今日は東京教室の稽古納めになる。
私としては、何時ものことながら何のことだか分からない。
しかし、一つの区切りとしてそうなのだろう。
また、この一つの区切りというのも分からない。
文化ということで片付けておこうと思う。
いわゆる時計時間の奴隷になっていると、こういった区切り意識が定着してしまう。
「来年こそは」「今年こそは」というものそれだ。
10代の頃は、わけも分からずそういった形をとっていた。
しかし、そう決断の真似事をした時に限って、三日坊主で終わってしまっていた。
その度に「自分は自分で決めたことすら出来ないのか、最低だな」と思ったものだ。
しかし、よくよく考えると、絶対に続けていることがあるし、絶対に諦めないこともある。
その事は、間違いなく自分の血になり肉になっている。
そこから考えると、知らず知らずにやっていることこそが自分であって、改めて決断もどきをしなければならないことは、自分ではないということだと決めた。
それにどうして「来年こそは」「今年こそは」なのか。
やりたければ既にやっている筈だと決めた。
もうお亡くなりになって何年になるのか分からないが、老子研究の第一人者だった秋野先生。
秋野先生が、「時間なんてものはのんべんだらりとしたもので」とおっしゃっていたのが印象的だった。
私の道場で、戦時中の話しや日本画家の、これまた第一人者のお母さんの話を聞いた。
どれもこれも、スケールが大きすぎて笑うしかなかった。
時間の奴隷ではないという一点が、これほど人間を豊かにするのかと、と只々うなるしかなかったことを思い出す。
とは、いうものの時間の中で、今日は稽古納めだ。
しかし、探求する私にとっては、時間の区切りはないのも事実だ。