Finlandでの公演

来年4月、Finlandでの公演が決まっている。
もう4年前になるが、埼玉彩の国で演った「マクベス」だ。
もちろん、Finlandの役者やダンサーを使うので、全く違うものになる。
というより、私が同じものを演りたくないだけなのだが。
先日、現地の武田さんと脚本の最終的な打合せを済ませ、後はその脚本の肉付けを今年中にやるだけとなった。
と、煮詰まってくると、どんどん新しいアイディアが浮かんでくるから、私の性分には困ったものだと自分ながら思う。
しかし、私の要求する舞台は難しい。
何時もながら「誰が出来るんや?」となる。
しかし、4年前も、今回も現地の武田さんと、ダンスは高原伸子さんがいる。
芯があれば、カッコが付く。
今回のベースになっているのは「脳の働き」だ。
そこに「マクベス」を乗せるのだ。
当然、「意味が分からん」という結末になる。
それは作品としても、舞台そのものにしてもだ。
ましてや、舞台芸術がさほど熟していないFinlandでは、もっと「訳が分からん」となるだろう。
ということを期待したものでもある。
「分かられてたまるか」なのだ。
しかし、全く別の要素で「良かった」を言わせてやろうと思っている。
その独自性を追求するから何かが生まれて来るのであって、誰にでも分かるようなことからは、余程でない限り何かは生まれない。
つまり、明日への手がかりが生まれないということだ。
役者の人達が、私のワークショップを受講してくれるようになり、役者が持つ技術なりイメージなりを知った。
それは、私にとって意味が分からないものだった。
だから、それを知ろうとワークショップでは、様々な事を試してみた。
何かが欠けているのだ。
昨日の黒沢美香さんの言葉ではないが、「身体が無い」のと「幻想を持ち込んでいる」ことだ。
これは完璧な間違いだ。
幻想を見るのは観客であって、役者や演出家では断じてない。
しかし、言葉としては「身体性」云々といくらでも転がっている。
どうして、その概念と自分とを結びつける事をしないのか。
そこも不思議の一つだ。
亡くなった、劇団維新派のまっちゃんこと、松本雄吉は私に「アキラは文化系ではなく、スーパーシュール・リアリズムだからな」と言っていた。
スーパーシュールだからこそ、本当にそれを実現したいのだ。
本当にというのは、決して想像でも思い込みでも、イメージでも幻想でもなく、「誰の目にも」なのだ。

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