追記 黒沢美香さん
先日黒沢美香さんがお亡くなりになり、その事に少しだけ触れた。
黒沢さんとは、アプローチの仕方は異なるが、もしかしたら、私と同じような方向を向いていたのかもしれないと思えた記事を見つけた。
まず「絵描きが絵を描く身体がダンスとなる時がある。音楽家が楽器を奏でる身体がダンスとなる時がある。同じようにカメラマンが撮っている姿、歌手が歌っている姿、もの書きが文章を綴っている姿」とある。
私は、世界的指揮者の小澤征爾さんの指揮に音楽やダンスを見つけた。
同時に、ここに書かれてあるような姿にダンスを見つけた。
もちろん、見つけたものは違うかもしれないが、「ダンスを意識しなかった時、あるいは、動きを意識しなかった時、そこにダンスが現れ美が現れる」と考えたのだ。
もちろん、これは武道でも同じだ。
そこに共通するのは「意識が邪魔をしなければ」である。
そこにどうアプローチすればよいのかだ。
また「身体で表現したいのだ。黒沢美香が邪魔だ。記憶が邪魔だ。身体が主役になりたいのだ」と結ばれる。
この言葉に至っては、全く同感だ。
身体が表現される為には「黒沢美香が邪魔だ」つまり、自意識やダンスへの意図が邪魔なのだ。
自意識や振り付けが見えてしまって、あるいは、段取りが見えてしまって身体は見えてこない。
身体が見える舞台など、数える程も無い。
どれほど有名なダンサーであっても、無名のダンサーであっても、そういった方向を持つダンサーに会ったことが無い。
だからこそ、黒沢さんはそこを目指したのではないだろうか。
実にきちんと舞台を見ている一人だったのだ。
そして、真摯にダンスに向き合っておられた一人だったのだ。
「身体が主役になりたいのだ」という言葉は、ダンサーであるがゆえの切実な欲求だったのだろう。
来年の2月、スイス・バゼルにある振付家協会に呼ばれてワークショップを開く。
その後は、ジュネーブで有名な振付家に呼ばれている。
そこでは、「身体が主役である」ということをレクチャーする。
当然、WORKも行う。目先の奇異をてらった作品が横行するコンテンポラリーダンスの世界だが、どうしてこのダンスとして本質的な点に目をつけないのか不思議でならない。
黒沢さんとは、ほんの少し言葉を交わしだけだったことが、今となって悔やまれてならない。
もしかしたら、同士だったかもしれなかったのに。