芸術の神様は笑っている!

この動画を見た時、「これだ」と思った。
(残念ながら動画がアップできなかった。小鳥の群れが大空を飛び回り、まるで約束したように、秩序のある自由な姿を見せている)
何が?
身体の有機的な動きのことだ。
そして武道の動きだ。
同時に「舞台でこれを見たい」と思った。
人の動きには、表面的には有機的な動き、無機的な動きがある。
表面的と書いたのは、「無機的な」というものに対するものだ。
実際問題として、有機体としての人が死なない限り無機的な動きは出来ない。
だから「無機的な動きに見えるような、人工的な動き」あるいは、「無機質に見えるような、人工的な動き」だ。
見えるような、というのは、それが振り付けであったり、自分で考えだしたもの、あるいは、即興的と呼ばれるようなもの。
しかし、それらの多くは自分自身の長年の「クセ」でしかない。
また、動き以前に「自意識が見えてしまう動き」もある。
しかし、それらはどれをとっても、人という有機体の動きだから有機的なのだ。
しかし、難しいのは逆に有機体だからといって、その総体としての動きが有機的にはならないことだ。
有機的に近い、人工的な動きにしかならないのだ。
この動画は小さな鳥の群れである。
それが、どんな信号を発しているのか、あるいは、どんなものに反応しているのかは知らないが、それこそ「有機的な繋がりを持ち」飛んでいる。
私は「有機的」を実現する為に、そこに「感覚」というものを中間に入れた。
感覚を使う、といっても、感覚だと「思う」あるいは、「思っている」ことではない。
皮膚や身体内に感じる刺激の事だ。
もちろんそこには、感情を伴うものも入る。
それの入り口として「ねじれ」を用いてプログラミングしていく。
それが、有機体が有機的な動きを生み出せる源だと考えたのだ。
ここに人工的に見える要素はない。
つまり、意識を使わないという暴挙に出たのだ。
人類誕生から、どれくらいの年月が経った頃からか知らないが、人は意識を使うことで身体を動かして来ている。
特に、芸術だとか舞台ということになると、その当初から、身体運動のシステムは何も変わっていない。
変わっているのは、作品だけである。
これほどつまらないことはない。
人類は無能だと、芸術の神様は笑っているだろう。
意識を使わなければ、その動きは誰が見ても有機的に見える。
つまり、小鳥の群れが空を舞い、自由自在に姿を変える、それが可能だと考えているのだ。
そのやり方を記しているのが、近著「考えるな!体にきけ!」である。

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