日本人なら?

「今年も12月になった」という季節になった。
大阪の街を歩くと、クリスマスの曲が流れていた。
スケジュールが迫ってくるので、そういった季節感もサッパリ無い。
先日、半期に一度の特養でのセミナーの打合せがあった。
「食べる為に何をするか」が仕事を見付ける動機だったと、常務と共感し合った。
現代は、そういった飢餓感が無い。
何とは無しに裕福なような世間になっているからだ。
大きなスーパーに行こうが、百貨店や商店街を歩くと、驚くほどの品数が揃っている。
確かに、物は溢れ裕福なような気がする。
それは「気がする」だけで、本当に裕福なのではない。
その証拠に、若い世代の貧困や、生活苦で自殺する人達もいる。
もちろん、それを格差社会という言葉で現し、社会問題としている。
しかし、その根底にあるのは、「仕事」そのものに対する認識の甘さや、企業自身が「企業が目先の儲けに走っている」からだ。
その原因は?となると、「教育」だろう。
例えば、その特養では外国人を雇い入れるという方向を打ち出している。
それは、一括りで言うと、日本人は仕事にならないからだ。
それよりも、外国の人の方が気が利くし、率先して仕事を見付けていくという。
「好きなことをする」何時の間にか、それが当たり前のようになっている日本。
企業が作り出す、耳障りの良いコピーに振り回され、全てがそういった甘い方向に向かっている日本。
しかし、現実は耳障りの良いコピーがあるのではない。
この特養で働くモンゴル人の家では「モンゴル人ならこれは必須だ」というものがあるという。
それは「馬に乗れる」ということだそうだ。
複雑な環境にあるモンゴルだが、そういった「モンゴル人とは」を毅然として守っているのだ。
さっそうと馬に乗るその青年の写真を常務は見せて貰ったという。
では「日本人であればこうだろう」は、一体何だ?
思わず二人で顔を見合わせてしまった。

Follow me!