稽古の意味は

昨日は、大阪の稽古だった。
一番年長の74歳のおばちゃんとの会話。
「世の中には、素晴らしい人が一杯いるのですね」
それは、先日お会いした英語の松本先生や、特養の友人、東南アジアのストリートチルドレンを救済するための会社を起ち上げている知人達の話をしたからだ。
何時も書いているように、人は自分の視点でしか世界も物事も見ることが出来ない。
そこに、全く別の視点を持ち込めば、世界が一変することもあるのだ。
武道をやろうと決めた当初、目的が定かではなかった。
ただただ「これは違うだろう」という直感だった。
これは違うというのは、全く幻想としてしか持っていない「柔よく剛を制す」という言葉と比べてという意味だ。
その柔よく剛を制すがどんな意味を持つのか、どんな実体を持つのか、それが幻であり幻想だったのだ。
その幻想を実際だとした時には、「これは違うだろう」という直感だ。
何とも無謀な直感だ。
幻想に対して現実を当てはめているからだ。
しかし、それは稽古や実験を重ねる内に、次第に姿を現してくることになる。
ひたすらやれば、そんなことも起こるのだ。
もちろん、ここには現代使われている「自分を信じて」とかと言う「信じる」という言葉は持ち合わせていない。
ただひたすら「どうして?」であり「ほんまかいな」という二つの口癖があっただけだ。
つまり、明確な目的を持たないからこそ、視点に拘らない事が出来たのだ。
とは、いってもまだまだ隠れた拘りを持っている。
それがクセだ。
それを発掘する為に稽古なのだ。

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