表現してはいけないのが

今回の「武禅」に、若い女性の役者が受講していた。
彼女のレポートに「先生は、簡単にやってみせるけど、それは、それ以外の沢山の経験があるから、それが簡単に出来る」と書いていた。
これは素晴らしい感性だ。
私が云々ということではなく、全ての人の一つの仕草や行為は、その人のそれまでの人生体験や経験の積み重ねの結果である。
だから、その一つを真似ようとしても、まず出来ないということだ。
逆に言えば、その一つの事をじっくり観察すると、その人全てが見えてくる、あるいは、既に見えていると言えるのだ。
だから、既に「自分は表現されている」というのだ。
もちろん、それは自分が意図的ではないので、当人にとっては表出されているだけだ。
武道の面白いところは、相手に自分を見せてはいけない点だ。
相手に見えた時点で、相手にこちらを見破られた時点で既に負けが決まったようなものだからだ。
だから、身体操作もどんどん見えないようにしていく。
それこそ、触れただけにしか見えないのに、どうして相手は転げるのか?というような事態が起こるのだ。
そういう現象を見た時に、人は「やらせ」というか「神技」だというかの、二方向の見方しかしない。
もちろん、武道をやっていない人は、それで十分だ。
しかし、武道に取り組む人は、そこにこの「見えてはいけない」という視点が必要なのだ。
体重がどう移動したのか、あるいは、どうバランスを崩したのか。
その意味で、運動解析とは異なった視点を、武道家は持っているということだ。
出版記念トークライブショー11月12日(土)午後2時~4時
http://2016hino.jimdo.com/
東京ワークショップ 11月21日‐24日
http://hinobudo.wixsite.com/workshop
98回武禅のレポートをアップしました。

https://www.hino-budo.com/buzen5.html

Follow me!