同じ土俵という考え方が

太田省吾さんが「能楽堂にカーンと蹴飛ばされて」と言ったそうだが、私は1970年の大阪万博の時、西ドイツ館でベートーベンを聴き、完全にノックダウンされた。
自分の出す音が、余りにも貧しい事に気付いたからだ。
音楽が違う、というのは簡単だ。
しかし、同じ音楽であるが表現手段が違うだけだ。
つまり、同じ音楽なのだ。
ここが一番大事なところで、違うのではなく同じだと出来るかどうかだ。
同じ土俵にあるものとして、自分の音楽をどう評価するのかなのだ。
そうなってくると、本当の意味で「音楽とは何か」を問わなければならないし、同じ土俵だという「何か」を提示しなければならない。
もちろん、自分自身にだ。これは途方もないことだった。
しかし、それをクリアしなければ、人の前で演奏など出来ない。
丁度そんな時期だった。
だから、やたら尖がりまくっていた。
この考え方は、武道でも同じだ。
そして、「武禅」では、こういった時期を経て獲得して来た「感性」から、関係性を抜き出しているのだ。
太田省吾さんの言葉を借りれば、「響き合う感性に出会えなければ存在しないのと同じ」、つまり、「響き合える感性」を掘り起こす作業を2泊3日で行っているのだ。
この短時間で出来る筈も無い事だが、ヒントになる気づきが沢山ある。
もちろん、それは受講者それぞれの問題なのだが、受講者が響くようにカリキュラム、受講者がピンとくるようなワークを、受講者から汲み取って作り出すのだ。
その意味で、同じカリキュラムなのだが、毎回異なる。
今回の一番若いのは、沖縄からくる女性だ。
上は、私と同い年だから68歳の男性だ。
夕方まで職人モードで修理をしていたが、今からは完全に「武禅」モードだ。
どんなドラマがあるのか、無いのか。
蓋を開けて見なければ分からない。

Follow me!