松本雄吉に

昨夜、何気なくnetでニュースを見ていたら、「ええ~っ」と思わず絶句した。
「松ちゃん」「死んだ!」
劇団維新派の主宰者松本雄吉。
私の一つ上だ。
食道がんだったそうだ。
1970年代、あらゆる芸術は情熱も破壊も創造も兼ね備えていた。
いわゆる「アングラ」と呼ばれ、日々創造と破壊が様々な舞台で繰り広げられていた。
そんな中、劇団日本維新派があった。
私はフリージャズという名の元に、徹底的に「集合即興演奏とは」を模索し演奏していた。
「アキラ、今度一緒に演れへんか」松ちゃんから声がかかった。
「ええよ、どこでや」
天王寺の野外音楽堂が、初めて劇団日本維新派との共演だったと思う。
とにかく、松ちゃんは舞台を創るのがずば抜けている。
もちろん、芝居だけで食べていける筈も無いので、殆どの役者は肉体労働をやっていた。
故に体力も馬力もあった。
突っ立っているだけでエネルギーが溢れていた。
丸太を何十本、何百本も組み合わせ、瞬く間に巨大な舞台を創ってしまうのだ。
殆どそれだけで芸術であり、松本雄吉の舞台の半分は終わっていると言っても過言ではないくらいの完成度を持っていた。
この維新派のピックアップメンバーと、よく実験的な舞台をやったものだ。
維新派が初めて東京公演をした時も、一緒に行った。
この時は、妻の出産と重なっていたが、私は歴史的な一ページ側を選んだ。
ミュージシャンも役者達も、アドレナリンが出まくっていただろう。
強烈な舞台だった。
維新派を始めて体験する東京に人達は、大興奮をしていた。
舞台が終わっても一向に帰る気配が無かったのだ。
打ち上げも半端ではなかった。
ある舞踏の稽古場を借りての打ち上げで、パトカーが何台も来るくらいのどんちゃん騒ぎだった。
私には子供が生まれ、生活を考えなければならない状況になっていたので、何とはなく維新派とは距離が出来た。
4,5年後、松ちゃんから電話が入った。
「アキラ、ちょっとやばい事になったんや、ショーで穴が空きそうや」
当時は、劇団や舞踏のメンバーは、肉体労働からキャバレーやクラブなどでのショーをすることで、お金を稼ぐ方に転換しいていたのだ。
ショーで穴が空くのは、どってことはないが、契約先が少々危険な匂いのするところだ。
それを知っているから「ええよ、何時からや」と、彼らのショーに出る事になったのだ。
2,3度、口合わせ的に段取りを聞き、1度軽いリハーサルをし、即本番だ。
「俺のやっている真似をするか、適当に絡んでくれたらええよ」と松ちゃん。
舞台など演奏で慣れているのだが、ショーとなると勝手が違う。舞台袖で恐ろしく緊張していたのを覚えている。
そんな楽しい思い出の数々。
「アキラはお茶漬けを、ほんまにうまそうに食うな」ショーが終わり、毎晩宴会だ。
そんな時、ポツリと松ちゃんが私に言った言葉だ。
石川県、愛知県、福岡県、東京、大阪、とにかく、休みなく沢山の街を回った。
ネタが尽きて「アキラ、振り付けせえや」と言われ、やったこともある。
「ここ、アキラの20分ソロや、音楽はビバルディの四季や」
この時の体験は、私にとって本当にかけがえのないものになっていった。
当時の松本雄吉と関わった人たちは、それぞれに相当とんでもない人生体験をしている。
そんな大きな贈り物をしてくれた偉大な男だ。
稽古場を作り、舞台そのものを作り、作品を作り続け、走り続けた。
近年では、演劇界では大きな賞を幾つも貰っている。
アングラと呼ばれた時代から、表の舞台で活躍するようになり、そして認めさせたのだ。
もし、松ちゃんと出会わなかったら、この道場も舞台でのノウハウも獲得してはいなかった。
松本雄吉に改めて感謝をする。
もうゆっくり寝てもええで、すぐに起こしにいったるから。

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